「孤独死」について2

近所の書店で売れている本の棚をみていたら、上野千鶴子『おひとりさまの老後』(法研、2007年)があった。手にとってぱらぱらめくると、最後のほうに「孤独死」についてページが割かれていたので、思わず買ってしまった。

上野千鶴子はこの本の中で「おひとりさまの条件は、友人のネットワークをもっていること」という意見を一貫して書いていて、そういうものをもっていない山猫としては気が滅入ったのだが、「孤独死」については、このあいだ自分が考えたのと似ていると思えるところもあり、少し意を強くした。上野千鶴子も<「孤独死」につきまとうネガティブなイメージを、なんとか払拭できないものだろうか?>と問いかける。この問いかけがあるだけで、この本は買った価値があった。

そこに紹介されていた、東京都観察医務院のホームページに載っている小島原將直という監察医長の講演録<『孤独死』――ニーチェに学ぶ>はおもしろかった。いや、おもしろいというと不正確かつ不謹慎かもしれないけれど、「孤独死」といわれる状況にある遺体の実際の検死解剖をしている方のことばかと思うと、迫力があった。上野は「心にしみる講演録」と書いているが、たしかに「録」ではなく全部を聴いてみたい気がする。ニーチェについては無知なので、それと「孤独死」との関係はいまひとつ山猫にはわからないところがあったが、

巷にあふれる「孤独死」にいわれなき恐怖を感じるなかれ。実際の死は苦しくないし、孤独も感じない。

と力強く断じられると――上野の本にも引かれている――ほっとするところがある。

上野先生も、小島原先生も、死んだときに早く発見されるよう万全の準備をしておけ、と忠告する。死んだらあとは野となれ山となれ、とも一瞬思うが、現実を考えれば片づける人は大変だし、あんまりひどい姿は他人に見せないにこしたことはない。そのうち、心拍が1時間停止したら自動的にどこかへ通知される指輪でも開発されないだろうか(GPS機能つき)。でもそうしたら今度は、自発か強制かという問題が起きてくる可能性がある。

そのHPで知って興味深いと思ったのは、<死体発見までの経緯>の分類があり、そのなかに<通い(飲食店など)>という項目があったことだ。これは要するに、いきつけの飲食店があって、顔をみせなくなった客を心配して店主が訪ねたり各所に連絡したりして発見される場合である。事例にも居酒屋とラーメン店の場合が載っている。これは発見の経緯のなかでも、とりわけ風流なパターンのように思える。いきつけの飲食店があるというのはいいことなんだなあ、と妙に納得した。

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「孤独死」について

テレビをつけていたら、NHKで遺品整理会社を取材したドキュメンタリー番組を放映していて、最後まで見入ってしまった。

番組の内容は《「天国への引っ越し手伝います」をキャッチに掲げる東京・大田区の日本初の遺品整理会社に密着。一人暮らしだった部屋に残された遺品から現代の孤独、家族の姿を映し出す》というものだ。

映し出されたこの会社の社員の働きぶりには好感がもてた。ただこの番組全体にどうしてもひっかかった点がひとつある。いや、実は前からずっとひっかかっているのだ。それは番組中のナレーションにあたりまえのように多用されていた「孤独死」という呼び方である。

孤独死、という語には、<本来あるべきではない死に方>というニュアンスが付随している。そこには、家族にみとられて死ぬ死に方が最上のものであるという価値判断が前提としてあることは、まちがいない。家族でなければ、少なくとも親類縁者か、医療関係者が臨死の人のかたわらにいるべきで、それがかなわないのはひどく不幸な人生の終わり方、という認識が「孤独死」という呼び方の中にふくまれている。

以下は少し声を落としてぼそぼそと語りたい。

そうなんだろうか。「孤独死」は、そんなに不幸な、忌み嫌うべきものなのだろうか。

そもそも、どんな場合でも、ひとはひとりで死んでゆくのではないだろうか。

「ひとはひとり死ぬであろう」――0n mourra seul.たしか大学生になった頃に読んだ、松浪信三郎『実存主義』(岩波新書)に出ていたことばだ。他の内容はぜんぶ忘れてしまったが、このやけに簡潔なフランス語の文だけは忘れられない。(ちょうど第二外国語でフランス語を習いはじめた時期で、動詞の活用をいっしょうけんめい覚えようとしていたせいもあるだろう。パスカルのことばだったはず)。

どんなにたくさんのひとにみとられようとも、ひとは自分の死を死ぬほかない。――いや、そんな訳知り顔の哲学の解説のようなことを書くつもりはなかった。

むしろ「孤独死」には、ひとの尊厳があるのではないか。テレビ番組で取材の対象となっていた死者たちは、どのひとも静かな諦念と自分の生をみすえる強さをたたえているように感じられた。誰だって蛆のわいた自分の亡骸を他人の目にさらしたくはない。そんなことはあたりまえだ。誰にもみとられない死を、みずからの生の終結として選んだひと――そうだ、選んだ、と言おう――にはおかしがたい威厳がある。高貴な生き方であり、死に方ではないか。それを「孤独死」という安易にマイナスイメージを負わされた語でおとしめるのは、腹立たしい。

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歩き酒

夜、歩きながら、酒が飲みたいと思う。アルコール分解酵素が少ない体質で、すぐ動悸がして顔が赤くなってしまうのだけれど、毎晩のみたい。若干依存気味である。

酒を飲みたい。しかし、自室の方丈の庵で飲むのは気鬱でやりきれない。かといって、どこかの店に入って酒とさかなを注文し、楽しむということもなかなかできない。人見知りなのでひとりではなかなか店内に踏みこめず、踏みこめても落ち着けないからである。また日本酒でいえば一合だと少しだけものたりなくて、二合飲むとあとで苦しむという中途半端なアルコール耐性のせいもある。

自室でも飲めず、店でもダメとすれば残る方法はひとつ。歩き酒である。コンビニで缶ビールか日本酒の小瓶を購って、歩きながら飲む。これがいちばん簡便だが、他人にはやや「すさんでいる」印象を与えるかもしれない。なるべく人通りの少ない場所を選んで歩き酒するのだが、日本酒の壜をもってふらふら歩いているこちらをみて、ぎょっとした表情をして大きく迂回する女性もいる。当然だろう。

飲酒欲は満たしても、公序良俗を乱すのはよくない。というわけで、日本酒を象印の小型(0.25リットル)まほうびんに移しかえて携行する。ときどき立ち止まってフタに注いでぐびりと飲む。これなら酒を飲んでいるとはわからないだろう。万事解決だ。ひんやりした秋の夜の空気のなか、吉田山かいわいで月を愛でながら歩き酒を楽しむのはすてがたい風流だ。……あれ、これってもしかしてアルコール依存のグレードが上っただけか? まあ、あしたから少し控えればいいさ。

コーヒーを入れたことのあるまほうびんに酒を入れると格段に味がおちるので念のため。

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