中村光『聖☆おにいさん』(講談社、2008年)

最近教えられてあわてて読んだマンガ。

以下は、たまにしかマンガを読まない山猫のいうことです……

この中村光というマンガ家はとびぬけたことをしているのではないか。『荒川アンダーザブリッジ』でも「タダモノではないな」とは思っていた。天才、と呼びたくなるが、「天才」ということばがもっているロマン性とは無縁である。絵もギャグもむしろ「ベタ」なのに、なにかが決定的に新しい。

マンガでしかあらわせない世界とだけ言っても、とうてい足りない。なんだろう。今回、「マンガ喫茶で手塚治虫の『ブッダ』を読んで感動にむせびながら「手塚治虫スゲェ……」とつぶやくブッダ」に笑ったのだが、あとでそれがちょっとヒントになった。

現実世界があって、マンガ世界がある。どんなマンガもこのマンガ世界に属するのだが、中村光のマンガは、そこには属さない。その「マンガ世界」の住人が読むマンガ世界、がもうひとつあって、中村光のマンガは、そこに属しているのだ。要するに「メタマンガ」である。といっても楽屋オチではないし、インテリが作ったこむずかしいものでもない。作家自身はそんなことを狙っているのかどうかわからないけれど、たとえば『荒川』にはギャグと同時に「この世界の不思議なこわれやすさ」みたいなものが自然に存在していて、それは現在的な何かにたしかに触れていると感じる。

『セイント』の中で、空腹なイエスとブッダが皿をもって庭に降りると、猫が皿に飛びこんできて、もう1匹の猫がマッチをくわえてさしだす。猫の意図に気づいたイエスとブッダは蒼白になって、「しないよ、そんなバーベキュー」という。これはいうまでもなく手塚の『ブッダ』の冒頭とラストを飾る「月の兎」を下敷きにしている。2000年前にインドで発生した自己犠牲の説話を、21世紀の日本でイエスとブッダがやんわりと解体する。考えてみればすごいコマだと思う。さらに〈「皆の気づかいが重い」と二人はのちにマリアにこぼしたという〉というオチがつく。

マリアはイエスの母親だから、ブッダまで一緒になってこぼしてはまずいだろうと一瞬思う。だが、若かりしころ山猫が聴講していた仏教概論の講義で、教授が少し脱線してこんなことを言ったのをおぼえている:「ブッダの母親のマーヤーというのは、幻という意味だ。「マリア」によく似ている。これが似ているのは偶然ではないかもしれない。ぶつぶつ」。講義していたのは世界的な碩学だった平川彰である。平川先生がそういったのだから、ブッダがマリアにこぼしても、別に何の問題もないのだ。

『聖☆おにいさん』とともに、日本の仏教受容1500年の歴史はめでたく終了したのである。

追記:なんてしかつめらしいことを書いたけれど、中村光の公式HP「Cappadocia」を見て、もうすっかりふつうの「ファン」になりました。日記もイラストも、キュンとするばかり。やばい……。やっぱり中村光は天才かも……。もしまた「ブックス談」にサイン会にきてくれたら、ぜひコスプレして行ってみたい。

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川崎長太郎『抹香町・路傍』(講談社文芸文庫、1997年)

小説を読む動機のひとつに、「自分と似ている人間が出てこないだろうか」という気持ちがある。すくなくともこの山猫にはそういう動機があるのだが、そう簡単にはみつからない。かといって「センセイの乾パン」や「博士の愛したねじ式」ではとうてい満足できないのである。

この川崎長太郎の文庫本は10年前に買って読みかけたがぜんぜんおもしろくなく、すぐに中断した。ところが最近ふと読み返してみたら、今度はひきこまれて最後までひといきに読んでしまった。これって、もしかして自分と似てないか?と思って親近感がわいたのである。

五十歳すぎた独身者で、ひとりで物置小屋に住み、ひとみしりでひとづきあいを避け、健康のことでびくびくして運動と称して外をひたすらほっつき歩くことを日課とし、たまに寂寞と空虚に耐えかねて安手の風俗街へおもむき、そこでしつこくして女に嫌われ……これってほとんど――「ほとんど」ということにしておこう――自分と同じやん!

いや、そんなことを言ったら長太郎の小説の主人公は怒るかもしれない。彼は行きつけの食堂で酒を飲み、よっぱらって美少女の店員を呼びつけ、ひんしゅくを買うくらいの爆発的なことはするし、また寝たきりになった母親のおむつを換え、熱いタオルでその体を拭いてやるのだから。そんなこと、わたしにはできはしない。

「父の死」という作品で、まだ三〇代の語り手の「私」が、自分の小説の載った新年号の雑誌を、「これが多分最後になるだろうと」「捧げるようにして」魚屋を営む父親に見せる。すると父親は:

小説の題や私の名は碌に見ず「これでいくら貰える」原稿料を尋ね、「小説」などよりその方がよっぽど大事な問題だと言う顔をし、私を唖然とさせたのだった。

小説を書いたことはないけれど、これと似たような経験は、何度もしたおぼえがある。わたしは「唖然」とさえできなかった。「あれれ、なんか思っていたのとちがうな……でもたぶん何か自分がまちがってるんだろう」と途方にくれただけである。

うーむ、別に私小説の主人公のような人生を送るつもりはみじんもなかったのだが。

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ヘッセ(松永美穂訳)/車輪の下で(光文社古典新訳文庫, 2007年)

世界文学の古典の新訳がはやりだという。しょせん山猫、「世界の名作」に親しむような環境に育たなかったのだが、この『車輪の下で』は中学生くらいのときに角川文庫で読んだことがあった。どれどれ、というわけで、新訳を買って読み直してみた。

そんなに記憶の中の印象と大きなちがいはなかったように思う。しかし読み直して「へーこんな箇所があったっけかなあ」という発見もあった。

神学校を退学になったハンス・ギーベーラントが故郷に帰って、なすすべなく家の周囲をぶらぶらするところで、二つの道が紹介される。そもそもギーベーラント家はその二本の道の角地に建っているのである。

一本は「ゲルバー小路」と呼ばれる、富裕層が住む、こぎれいな家の立ち並ぶ通り。もう一本は、「ツム・ファルケン(鷹亭へ)」と呼ばれる、ちょっとあやしい人たちが住む、貧民街へ通じる通り。「ツム・ファルケン」には病気や犯罪が多発し、首をくくる落ちぶれた職人やアルコール依存症の元郵便配達人が住んでいたりする。ハンスの子ども時代の思い出はこの「ファルケン」の方にたくさんあるのだが、道なかばで挫折したハンスがこの通りをうろついても、もはや隔たりを感じるばかりである。

子ども時代にあらわれる、大きな二つの世界を代表するふたつの道。これは普遍的な現象かなあと思う。『失われた時を求めて』の「スワン家のほうへ」と「ゲルマントのほうへ」も同じだ(なんて、「失われた……」もついに完読していないけれど)。子どものとき、あっちの道を行くとこういう世界が広がっていて、こっちの道を行くとこういう世界が広がっていて……というのは誰しも思い当たるところがあるのではないか。

最後、ハンスは自殺とも事故死ともわからない謎めかしい死に方をするが、ハンスの神経症も死も、この小説全体からみると、「ゲルバー小路」の世界にも「ツム・ファルケン」の世界にも居場所をみつけられなかったストレスに原因があるように読める。一種の「故郷喪失」である。

故郷を喪失したら、旅立つのもひとつの手だ。この小説では、その役割がハイルナーに託されているのだろう。

もうひとつ、細かいところだが、「ファルケン」とともにハンスの子ども時代の思い出の場所だった「皮なめし工場」に行くと、昔とおなじく「おはなしおばさん」のリーゼがじゃがいもをむきながら子どもたちに物語を聞かせている。「リーゼは聖クリストフォロの話をしていた。夜、子どもの声が川の向こうから彼を呼んだという話だ」。

これはたしか芥川龍之介が「くりすとほろ上人伝」のネタにした聖人伝である。思わぬところで出会った。本当にヨーロッパではこんなふうに庶民に語られていたのか……と思うと興味深い。

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中島義道『ひとを愛することができない』(角川文庫、2007年)

中島義道の本は、書店で見かけても手にとるのはなかなか勇気がいる。そのエネルギーにみちた業のようなものに圧倒されてしまうからだ。もちろんそれだけではなくて、中島先生は誰も言わないことを言ってくれることがある。この本では次のようなところだった。 

現代日本のマジョリティ(多数派)はひとを愛することは当然であり、この能力の欠如している者を人間のかたちをした怪物のように忌み嫌う。どんなに学力があっても、仕事ができても、ひとを愛することができなければ虫けら同然だという論理を振り回す。他方、愛することができれば、いかなる欠点をも帳消しにするほど人間として立派なのだと考える。

この思い込みはたいそう強いので、これに疑問を付すことすら難しい。これを問題にすることすら嫌がられる。ここで、私は肩の力を落とす。

まったくそうだ、と思う。現代では、「愛」こそ至上の価値であり、「ひとを愛せない人間は人非人」ということになる。ひとを愛せない人間、それは鬼・悪魔に等しいのだ。

今回、中島義道は、これを《偏見》として、こなごなに打ち砕いてくれるのかとひそかに期待していたら、そういうわけではなかった。中島先生はこの本の中で「愛」の諸相を分析し、自分の生い育った家庭、特に「ひとを愛せない人」であった父親と、その人に愛を要求しつづけた母のことを赤裸々につづる。結論は、要約すれば、「自分しか愛せなかったこの醜い自分を直視して生きていくしかない。それがほかならぬ《自分》なのだから」というものである。けっして、「ひとを愛せなくてもいいではないか」とは言っていない。

「ひとを愛することのできない人間」は鬼・悪魔で、生まれてこなければよかったのだろうか。

愛するのは人間でなくてもいい、と言ってくれた本に、今まで一冊だけ出会ったことがある。神田橋條治という著者の、『精神科養生のコツ』(岩崎学術出版)という本の中に、次の一節がある。

人生では愛することが不可欠です。不可欠なのは、愛されることではありません。愛することなのです。そして、愛する相手は、人でなくてもいいのです。生き物でなくてもいいのです。星空を愛して人生を送っても充実した人生になるのです。わたくしたちは何かを愛しているときに、自分の人生を生きているのです。

人間でなくても、生き物でなくてもよいのか……。このことばには救われる。だけれども本当だろうか。もう少し証拠がほしい。

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料治熊太編『谷中安規版画天国』(岩崎美術社、1976年)

滋賀県立近代美術館で見て興味をもったので、近所の図書館に出かけて、検索してみると、この本がヒットしたので、借りてきた。

100点を越える作品が載せられている。なるほど…。複雑な家庭環境に育ち、独学で版画を学んで、極貧の生活を意に介さなかった作家らしいが、やっぱりあらためて見ても、かげりとかコンプレックスを作品からほとんど感じない。どの作品も大胆な構図で、ユーモアと夢想にあふれている。しつこさがなく、からりとしたところがある。「詩画集」というシリーズが、物語が感じられていちばんおもしろかった。

解説の料治熊太氏は「棟方志功は陽性であり、谷中安規は陰性」というが、谷中も十分陽性ではないかと思う。

この解説がまた力のこもった、読ませる文章だった。料治氏は谷中が「餓死」したということを積極的に評価する。

「餓死して果てたということは、彼がどれほどこの世を純粋に生きたかを示すもので、小成に甘んずる輩のうかがい知ることの出来ない境地である」。

こういう言葉を、わたしは若い頃から鼻先でわらってきた。ひねくれていたのだ。まずは食うことだ、と怠惰を正当化してきた。気づけば、まさに「小成に甘んずる輩」と成り果ててしまっている。いやそれどころか「小成」でもあればマシだろう。あるのは、少額の普通預金のみというざまだ。

食うためだけに生きるとは、なんとあさましく、さむざむしいことか。谷中安規が死んだ年齢に到ろうとして、率直に理想をもつことの大事さというものに、やっと気づくのである。

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幸田露伴『幻談・観画談』(岩波文庫、1990年)

釣りをしたら釣りの文章が読みたくなった。幸田露伴に「幻談」というのがあったはずだ。本を入れた櫃のなかをあさったが、みつからない。仕方ないので本屋へ行って岩波文庫を購おうとして手にとると、現代かなづかいになっている。あれ、たしかむかし読んだときは旧かなで読んだよなあ……と不審に思ったが、他に簡単に入手できる版はない。

江戸も末期、御役御免になった暇な武士が、毎日船をしたてて釣りにいく話である。解説の川村二郎が言うように、ほとんど「無内容」な小説で、少々怪談じみた設定があるといえばあるのだが、べつに教訓があるのでもなく、人情の機微があるのでもなく、ことさらに詩的雰囲気を狙ったところもない。「ほのぼの」もしていないが、生の実相をえぐるというような深刻なものもない。「純粋文章」のひとつ、と言っていいかもしれない。読みおわると、あたかも暮れきる直前の、なめらかで茫々とした湾をそのまま器に封じこめて飲んだような感じがのこる。不思議な小説だ。

「幻談」はケイズ(クロダイ)釣りで、巻末の「蘆声」は中川でセイゴ、フッコ釣りである。露伴は汽水域の釣りを好んだのか。江戸前だから、自然とそうなるのか。

追記:その後なんども読み直すうち、いや、これは「無内容」ではなくて、たしかに何ごとかが記されている、と思うようになった。つまり「内容」があるのだ。「心は巧みなる画師の如し」が問題である。この小説には教訓も、微妙な生の実相も含まれているかもしれない。

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吉本隆明初期詩集(講談社文芸文庫、1992年)

吉本隆明の初期の詩は、かつて著作集でも読み、「全集撰」でもたどったが、最近きっかけがあってこの文庫本を手にとった。

初期詩集といっても時期によってだいぶスタイルは変わってくる。だけど一貫しているものがある。それは「夕ぐれ」だ。清らかで貧しい夕暮れ。心がつつましくなる、空腹の夕暮れ。主観的な印象だが、吉本隆明の詩は、なによりもこれだ。ほかにも空気の冷たさ、秋、舗道、風、祈り、憩い……といった慕わしいモチーフを数えることができるのだが、とりわけて。この「夕ぐれ」にはどことなくプロテスタント的な空気があるようにかつて思ったのだが、誤解かもしれない。そういうものをつきぬけた普遍的なものかもしれない。

最初の数篇を通りこすとあらわれるのが、「エリアンの手記と詩」である。詩と散文をくみあわせた一種のメルヘンで、吉本自身が「解説」で書いているように、思春期に通った深川門前仲町の私塾での黄金時代が作品の背景になっている。

登場人物の名前が――まるである種の日本アニメが架空のヨーロッパ風の街を舞台とするみたいに――<エリアン><ミリカ><イザベル・オト先生>となっている。東京の下町の現実をヨーロッパ的雰囲気の世界で仮構しようというのは、堀辰雄や立原道造でおなじみのパターンだ(それを踏まえて吉本は後年「四季派」批判をしたのかもしれないが、個人的にはよくわかる発想である)。その一方で、吉本のエッセイを読んだりこの「手記と詩」を読んだりしていると、その思春期の塾での時間が、希有でありながら誰でも覚えのあるような、ひとつの完全な思春期的世界を想像させる。そして抽象化された表現でなく、その時間と空間を具体的に再現するような長篇小説などがもし存在するならば、それを読んでみたいと思うのである。

最後尾に位置する「転位のための十篇」は、書き出しもしくは終わりにカッコいい詩句が多いと思ってきた。

  ユウジン  これはわたしの火の秋の物語である (「火の秋の物語」)


  不安な季節が秋になる(「分裂病者」)


  まるい空がきれいに澄んでゐる

  鳥が散弾のやうにぼくのはうへ落下し

  いく粒かの不安にかはる (「その秋のために」)

九月になった。せめて秋は不安な季節であれよ、と思うのだ。

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現代詩文庫175/征矢泰子詩集(思潮社、2003年)

1934年生まれ、仕事も家庭も持ち、40歳を過ぎてから詩集を出しはじめ、1992年に自死した詩人の選集。北川朱実『死んでなお生きる詩人』(思潮社、2001年)という本で知って、読んでみようと手にした。

激しい詩だ。言葉のほうが走る気配を見せた瞬間、すかさず内容がそれを抑えこんだのでは、と思える箇所がある。すこし走ったところの詩のほうがいいと思った。

ふいてふいてふいて風よ

てかげんもいたわりもためらいもなく

ただやくたいもなくおもうさま

ふいてふいてふいて 風よ

ふきちらして

ふきたおして

ふきちぎって  風よ

こんなにも昏さ知らず哀しさ知らず

天よりも白くあかるく咲いてしまったので

もうあすからを

いきるひつようもない

純白いろのゆめ

いやもなくおうもなくひとおもいに

今日  初夏のあおい夜明け

ゆめのまま亡骸にかえて風よ

ふいてふいてもっとふいて  風よ

                   (「マーガレットのために」同書より。*初夏…はつなつ、亡骸…むくろ)

あと「ゆれるものを」「八月の鯨」という詩が心に残った。

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こうの史代/夕凪の街 桜の国(双葉社、2004年)

今年映画化もされた評価の高いこのマンガをやっと読んだ。

短編が3つ連なったのみの薄い単行本で、読みながら人間関係をたどったりする手間が少しかかるが、それでも半日もかからずに読み終えてしまえる作品である。

いちばん感心したのは、ほかならぬその「短さ」だ。3つの短編、ぜんぶで100ページ足らずのマンガで、約60年間、家族三代分の時間を描き、まったく過不足がない。これが文章でできるか。文学とマンガを単純に比較するのは意味がないけれども、ちょっとむずかしいと思う。もちろんマンガならできるというものではなく、密度がそれを可能にしているのだろうが。

「桜の国(一)」で、主人公の少女・七波がとつぜん野球の練習をさぼって、となりの家の東子ちゃんと一緒にぜんそくで入院している弟の凪生を見舞う場面がある(ふだんはおばあちゃんから来てはいけない、といわれている)。あつめてきた桜の花びらを弟のベッドにふりまくシーンには思いがけず迫るものがあった。じつはこの山猫もちょうど凪生の歳のころぜんそくで入院していたから、個人的な記憶と共振したのである。花びらを撒いてくれる少女はいなかったけれども…。

「そして確かに/このふたりを選んで/生まれてこようと/決めたのだ」

この作品のすべてのコマを受け止めることばがこれだということは、わかる。

しかし、しかし、かすかな違和感のようなものを個人的には振り払うことができない。なぜかといえば、自分には結局これまでこういう肯定がおとずれなかったからというほかない……。思いがけず最後に苦しくなった。これはこのマンガの責任ではないが。

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杉浦明平『カワハギの肝』(光文社文庫、2006年)

後付によれば、もともとは1976年に出版された単行本の文庫再版。

作家やらエッセイストのグルメ本の類を読んでいて、京都の食べ物をけなす記事にはあまりお目にかからない。みなほめる。だんだんと、「京都の食べ物をおいしいと感じなかったら、自分のほうが悪いのではないか」という雰囲気になってしまう。たまには解毒剤も必要だ。

そう思っていたら、いた。正面から京料理を「まずい」と言っている作家が。

「本来なら味の中心でもあるべきだった京都ほど食べもののまずいところはない」

「中世の公卿の日記に出てくる食べものでわたしたちの食欲をかき立てるようなものはほとんどない。(中略)  一千年もまずいものばかり食っていたら、味覚も衰弱してしまう。今でも京都の古い家の家庭料理のまずいこと、とてもお話にも何にもならぬ」

こんな調子である。そもそも吉田健一をちくりと揶揄してはじまるこの本で印象的なのは、「野外食い歩きの記」と題した、少年時代に郷里でさまざまな野草や木の実や果実をそのままで食べた味をめぐる文章である。冬には海で海藻をあつめる小舟からナマコを譲ってもらって、そのままかじる。「海水で洗って頭から噛んでゆくナマコほどうまいものはなかった」。

杉浦明平は、なんでもとりあえず生でかじってみるタイプなのである。ちょっと正岡子規に似てるかなあと思う。子規に野生のイチゴをむさぼり食う文章があった。たぶん「かじる」派に京料理は向かないのだ。

杉浦明平は学生時代、立原道造の親友だった。岩波文庫の『立原道造詩集』の解説を書いているのは杉浦明平である。それによれば二人は文学論を戦わせながらよく一緒に古本屋めぐりをしたという。疲れてひと休みするときは、立原の好みで杉浦はいつもお汁粉屋に連れて行かれ、内心閉口していた。立原の晩年、激しい議論をかわした際に、杉浦はつい「何だい、君は。男のくせにぜんざいを三杯もよく食べられるもんだな」と叫んでしまう。すると立原は何か言おうとして言葉にならず、目に涙を浮かべたとある。杉浦のせりふもせりふだが、立原も何も泣かなくてもいいだろうに、とこの文章を読むたびに思う。

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松谷みよ子『現代の民話』(中公新書、2000年)

内容の濃い、インパクトのある新書だった。この本に載せられたさまざまな「現代民話」には、「人間の不思議さ」を越えた「生命の不思議さ」を感じさせられるものがある。九頭竜川の河童は金物(かなもの)が嫌いなのだが、あるとき「川の水をかえてくれ、水がおとろしい」と人間に嘆き訴えたという。ふだんは河童と仲のよい村人たちも、今回は何のことだかわからなかった。河童たちはなすすべなく川をよろよろ立ち去っていく。実はそのとき川がカドミウムで汚染されていたことがあとになってわかる。カドミウムは金属である。河童は微量の金属を察知して人間に知らせ、自分は去っていったのである。

怖い話も多くて、正直いうと深夜一人で読めないところも(怖がりなんです)。そういうところはわざとにぎやかなコーヒーショップに行って読んだ。全十二巻の『現代民話考』にまで手を広げる余裕はすぐにはできないが、これは文学や宗教の基礎を考えるときに必要な、価値ある本だと思う。

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宮本常一『日本の宿』(八坂書房、2006年)

昭和62年に刊行された本の新版、と後付にある。日本の宿、つまり旅のときに泊まる場所の通史。

印象的だったのは、日本の宿の歴史には遊女、ひいては職業として性的交渉を行う女性の存在が切っても切れないことで、それはもともと古代に旅した貴人への「もてなし」に源泉するという。遊女の発生原因のひとつ(あくまでひとつだが)には、そういうホスピタリティの側面があったらしい。

もうひとつは最後の方で、下宿や寄宿舎や寮の話に広がってゆくこと。考えてみれば、長期間ではあっても、そういうものはたしかに「仮の宿り」にはちがいない。なるほど。すると、鉄筋の賃貸マンションだってひとつの旅宿と言ってよいと思う。旅宿で死んだらそれは「客死」となる。それを言ったら病院で死んでも「客死」だろうな。山猫が今住んでいる方丈の庵は一時的に借りている小屋だから、ここで息絶えたら「客死」となるわけだ。「孤独死」よりはずっとましな、風流な死の呼び方だと思う。

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志村貴子『放浪息子』⑥(エンターブレイン、2007年)

Horomusuko2かつて第①巻をジャケ買いして以来購読しているマンガの最新刊。

他の作品はあまり知らないのだが、私見ではこのマンガ:

1.描線に特有の清潔さがある。

2.女性の腕や足のシルエットがきれい。

3.コマの中の人物配置(?別の言葉あるかも)が卓抜。

(マンガにはよくあることだが)最初の頃にくらべてだいぶ絵柄が変化してきた。小学校から中学校へ舞台が移ったのにちょうど対応しているとも言える。個人的には千葉さんと末広安那と二鳥くんのお母さんが好き。千葉さんは小学校編のほうが魅力ある。実は二鳥くんとベストカップルになれるのは末広安那なのでは?

それはそれとして、今回の⑥では、二鳥くんがお姉さんの下着をこっそり着けてみて、そのあとコインランドリーでその下着を洗濯するシーンがある。結局お姉さんには気づかれてしまうのだが、なんで二鳥くんはわざわざ洗ったのだろう。やましいから? そうではなくて、これ、たぶん二鳥くんは射精してしまったのだろう。すでに③巻で二鳥くんは精通を経験している。そう考えると少し生々しいマンガになってくるが、実は生々しいマンガで、だからこそこの作品はクリアなやさしい線で描かれる必然があるのだと思う。


その後、同じ作者の「青い花」という作品を読んだのだけれど、なぜだろう、あんまりおもしろくない。入っていけない。「放浪」のほうが好きだ。

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