ロラン・バルトのデッサン
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最近教えられてあわてて読んだマンガ。
以下は、たまにしかマンガを読まない山猫のいうことです……
この中村光というマンガ家はとびぬけたことをしているのではないか。『荒川アンダーザブリッジ』でも「タダモノではないな」とは思っていた。天才、と呼びたくなるが、「天才」ということばがもっているロマン性とは無縁である。絵もギャグもむしろ「ベタ」なのに、なにかが決定的に新しい。
マンガでしかあらわせない世界とだけ言っても、とうてい足りない。なんだろう。今回、「マンガ喫茶で手塚治虫の『ブッダ』を読んで感動にむせびながら「手塚治虫スゲェ……」とつぶやくブッダ」に笑ったのだが、あとでそれがちょっとヒントになった。
現実世界があって、マンガ世界がある。どんなマンガもこのマンガ世界に属するのだが、中村光のマンガは、そこには属さない。その「マンガ世界」の住人が読むマンガ世界、がもうひとつあって、中村光のマンガは、そこに属しているのだ。要するに「メタマンガ」である。といっても楽屋オチではないし、インテリが作ったこむずかしいものでもない。作家自身はそんなことを狙っているのかどうかわからないけれど、たとえば『荒川』にはギャグと同時に「この世界の不思議なこわれやすさ」みたいなものが自然に存在していて、それは現在的な何かにたしかに触れていると感じる。
『セイント』の中で、空腹なイエスとブッダが皿をもって庭に降りると、猫が皿に飛びこんできて、もう1匹の猫がマッチをくわえてさしだす。猫の意図に気づいたイエスとブッダは蒼白になって、「しないよ、そんなバーベキュー」という。これはいうまでもなく手塚の『ブッダ』の冒頭とラストを飾る「月の兎」を下敷きにしている。2000年前にインドで発生した自己犠牲の説話を、21世紀の日本でイエスとブッダがやんわりと解体する。考えてみればすごいコマだと思う。さらに〈「皆の気づかいが重い」と二人はのちにマリアにこぼしたという〉というオチがつく。
マリアはイエスの母親だから、ブッダまで一緒になってこぼしてはまずいだろうと一瞬思う。だが、若かりしころ山猫が聴講していた仏教概論の講義で、教授が少し脱線してこんなことを言ったのをおぼえている:「ブッダの母親のマーヤーというのは、幻という意味だ。「マリア」によく似ている。これが似ているのは偶然ではないかもしれない。ぶつぶつ」。講義していたのは世界的な碩学だった平川彰である。平川先生がそういったのだから、ブッダがマリアにこぼしても、別に何の問題もないのだ。
『聖☆おにいさん』とともに、日本の仏教受容1500年の歴史はめでたく終了したのである。
追記:なんてしかつめらしいことを書いたけれど、中村光の公式HP「Cappadocia」を見て、もうすっかりふつうの「ファン」になりました。日記もイラストも、キュンとするばかり。やばい……。やっぱり中村光は天才かも……。もしまた「ブックス談」にサイン会にきてくれたら、ぜひコスプレして行ってみたい。
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小説を読む動機のひとつに、「自分と似ている人間が出てこないだろうか」という気持ちがある。すくなくともこの山猫にはそういう動機があるのだが、そう簡単にはみつからない。かといって「センセイの乾パン」や「博士の愛したねじ式」ではとうてい満足できないのである。
この川崎長太郎の文庫本は10年前に買って読みかけたがぜんぜんおもしろくなく、すぐに中断した。ところが最近ふと読み返してみたら、今度はひきこまれて最後までひといきに読んでしまった。これって、もしかして自分と似てないか?と思って親近感がわいたのである。
五十歳すぎた独身者で、ひとりで物置小屋に住み、ひとみしりでひとづきあいを避け、健康のことでびくびくして運動と称して外をひたすらほっつき歩くことを日課とし、たまに寂寞と空虚に耐えかねて安手の風俗街へおもむき、そこでしつこくして女に嫌われ……これってほとんど――「ほとんど」ということにしておこう――自分と同じやん!
いや、そんなことを言ったら長太郎の小説の主人公は怒るかもしれない。彼は行きつけの食堂で酒を飲み、よっぱらって美少女の店員を呼びつけ、ひんしゅくを買うくらいの爆発的なことはするし、また寝たきりになった母親のおむつを換え、熱いタオルでその体を拭いてやるのだから。そんなこと、わたしにはできはしない。
「父の死」という作品で、まだ三〇代の語り手の「私」が、自分の小説の載った新年号の雑誌を、「これが多分最後になるだろうと」「捧げるようにして」魚屋を営む父親に見せる。すると父親は:
小説の題や私の名は碌に見ず「これでいくら貰える」原稿料を尋ね、「小説」などよりその方がよっぽど大事な問題だと言う顔をし、私を唖然とさせたのだった。
小説を書いたことはないけれど、これと似たような経験は、何度もしたおぼえがある。わたしは「唖然」とさえできなかった。「あれれ、なんか思っていたのとちがうな……でもたぶん何か自分がまちがってるんだろう」と途方にくれただけである。
うーむ、別に私小説の主人公のような人生を送るつもりはみじんもなかったのだが。
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