« 川崎長太郎『抹香町・路傍』(講談社文芸文庫、1997年) | トップページ | ロラン・バルトのデッサン »

中村光『聖☆おにいさん』(講談社、2008年)

最近教えられてあわてて読んだマンガ。

以下は、たまにしかマンガを読まない山猫のいうことです……

この中村光というマンガ家はとびぬけたことをしているのではないか。『荒川アンダーザブリッジ』でも「タダモノではないな」とは思っていた。天才、と呼びたくなるが、「天才」ということばがもっている近代的なロマン性とは無縁である。絵もギャグもむしろ「ベタ」なのに、なにかが決定的に新しい。

マンガでしかあらわせない世界とだけ言っても、とうてい足りない。なんだろう。今回、「マンガ喫茶で手塚治虫の『ブッダ』を読んで感動にむせびながら「手塚治虫スゲェ……」とつぶやくブッダ」に笑ったのだが、あとでそれがちょっとヒントになった。

現実世界があって、マンガ世界がある。どんなマンガもこのマンガ世界に属するのだが、中村光のマンガは、そこには属さない。その「マンガ世界」の住人が読むマンガ世界、がもうひとつあって、中村光のマンガは、そこに属しているのだ。そんなふうに考えた。要するに「メタマンガ」である。といっても楽屋オチではないし、インテリが作ったわざとらしいものでもない。作家自身はそんなことを狙っているのかどうかわからないけれど、たとえば『荒川』にはギャグと同時に「偶然的な世界の不思議なこわれやすさ」みたいなものが自然に存在していて、それは現在的な何かにたしかに触れていると感じる。

『セイント』の中で、空腹なイエスとブッダが皿をもって庭に降りると、猫が皿に飛びこんできて、もう1匹の猫がマッチをくわえてさしだす。猫の意図に気づいたイエスとブッダは蒼白になって、「しないよ、そんなバーベキュー」という。これはいうまでもなく手塚の『ブッダ』の冒頭とラストを飾る「月の兎」のパロディーである。2000年前にインドで発生した自己犠牲の説話を、21世紀の日本でイエスとブッダがやんわりと解体する。考えてみればすごいコマだと思う。さらに〈「皆の気づかいが重い」と二人はのちにマリアにこぼしたという〉というオチがつく。

マリアはイエスの母親だから、ブッダまで一緒になってこぼしてはまずいだろうと一瞬思う。だが、若かりしころ山猫が聴講していた仏教概論の講義で、教授が少し脱線してこんなことを言ったのをおぼえている:「ブッダの母親のマーヤーというのは、幻という意味だ。「マリア」によく似ている。これが似ているのは偶然ではないかもしれない。ぶつぶつ」。講義していたのは世界的な碩学だった平川彰である。平川先生がそういったのだから、ブッダがマリアにこぼしても、別に何の問題もないのだ。

『聖☆おにいさん』とともに、日本の仏教受容1500年の歴史はめでたく終了したのである。

追記:なんてしかつめらしいことを書いたけれど、中村光の公式HP「Cappadocia」を見て、もうすっかりふつうの「ファン」になりました。日記もイラストも、キュンとするばかり。やばい……。やっぱり中村光は天才かも……。もしまた「ブックス談」にサイン会にきてくれたら、ぜひコスプレして行ってみたい。

|

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/202724/41140770

この記事へのトラックバック一覧です: 中村光『聖☆おにいさん』(講談社、2008年):

コメント

コメントを書く




コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。