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川崎長太郎『抹香町・路傍』(講談社文芸文庫、1997年)

小説を読む動機のひとつに、「自分と似ている人間が出てこないだろうか」という気持ちがある。すくなくともこの山猫にはそういう動機があるのだが、そう簡単にはみつからない。かといって「センセイの乾パン」や「博士の愛したねじ式」ではとうてい満足できないのである。

この川崎長太郎の文庫本は10年前に買って読みかけたがぜんぜんおもしろくなく、すぐに中断した。ところが最近ふと読み返してみたら、今度はひきこまれて最後までひといきに読んでしまった。これって、もしかして自分と似てないか?と思って親近感がわいたのである。

五十歳すぎた独身者で、ひとりで物置小屋に住み、ひとみしりでひとづきあいを避け、健康のことでびくびくして運動と称して外をひたすらほっつき歩くことを日課とし、たまに寂寞と空虚に耐えかねて安手の風俗街へおもむき、そこでしつこくして女に嫌われ……これってほとんど――「ほとんど」ということにしておこう――自分と同じやん!

いや、そんなことを言ったら長太郎の小説の主人公は怒るかもしれない。彼は行きつけの食堂で酒を飲み、よっぱらって美少女の店員を呼びつけ、ひんしゅくを買うくらいの爆発的なことはするし、また寝たきりになった母親のおむつを換え、熱いタオルでその体を拭いてやるのだから。そんなこと、わたしにはできはしない。

「父の死」という作品で、まだ三〇代の語り手の「私」が、自分の小説の載った新年号の雑誌を、「これが多分最後になるだろうと」「捧げるようにして」魚屋を営む父親に見せる。すると父親は:

小説の題や私の名は碌に見ず「これでいくら貰える」原稿料を尋ね、「小説」などよりその方がよっぽど大事な問題だと言う顔をし、私を唖然とさせたのだった。

小説を書いたことはないけれど、これと似たような経験は、何度もしたおぼえがある。わたしは「唖然」とさえできなかった。「あれれ、なんか思っていたのとちがうな……でもたぶん何か自分がまちがってるんだろう」と途方にくれただけである。

うーむ、別に私小説の主人公のような人生を送るつもりはみじんもなかったのだが。

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