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ヘッセ(松永美穂訳)/車輪の下で(光文社古典新訳文庫, 2007年)

世界文学の古典の新訳がはやりだという。しょせん山猫、「世界の名作」に親しむような環境に育たなかったのだが、この『車輪の下で』は中学生くらいのときに角川文庫で読んだことがあった。どれどれ、というわけで、新訳を買って読み直してみた。

そんなに記憶の中の印象と大きなちがいはなかったように思う。しかし読み直して「へーこんな箇所があったっけかなあ」という発見もあった。

神学校を退学になったハンス・ギーベーラントが故郷に帰って、なすすべなく家の周囲をぶらぶらするところで、二つの道が紹介される。そもそもギーベーラント家はその二本の道の角地に建っているのである。

一本は「ゲルバー小路」と呼ばれる、富裕層が住む、こぎれいな家の立ち並ぶ通り。もう一本は、「ツム・ファルケン(鷹亭へ)」と呼ばれる、ちょっとあやしい人たちが住む、貧民街へ通じる通り。「ツム・ファルケン」には病気や犯罪が多発し、首をくくる落ちぶれた職人やアルコール依存症の元郵便配達人が住んでいたりする。ハンスの子ども時代の思い出はこの「ファルケン」の方にたくさんあるのだが、道なかばで挫折したハンスがこの通りをうろついても、もはや隔たりを感じるばかりである。

子ども時代にあらわれる、大きな二つの世界を代表するふたつの道。これは普遍的な現象かなあと思う。『失われた時を求めて』の「スワン家のほうへ」と「ゲルマントのほうへ」も同じだ(なんて、「失われた……」もついに完読していないけれど)。子どものとき、あっちの道を行くとこういう世界が広がっていて、こっちの道を行くとこういう世界が広がっていて……というのは誰しも思い当たるところがあるのではないか。

最後、ハンスは自殺とも事故死ともわからない謎めかしい死に方をするが、ハンスの神経症も死も、この小説全体からみると、「ゲルバー小路」の世界にも「ツム・ファルケン」の世界にも居場所をみつけられなかったストレスに原因があるように読める。一種の「故郷喪失」である。

故郷を喪失したら、旅立つのもひとつの手だ。この小説では、その役割がハイルナーに託されているのだろう。

もうひとつ、細かいところだが、「ファルケン」とともにハンスの子ども時代の思い出の場所だった「皮なめし工場」に行くと、昔とおなじく「おはなしおばさん」のリーゼがじゃがいもをむきながら子どもたちに物語を聞かせている。「リーゼは聖クリストフォロの話をしていた。夜、子どもの声が川の向こうから彼を呼んだという話だ」。

これはたしか芥川龍之介が「くりすとほろ上人伝」のネタにした聖人伝である。思わぬところで出会った。本当にヨーロッパではこんなふうに庶民に語られていたのか……と思うと興味深い。

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