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KAKI KING/Legs To Make Us Longer(EPIC,2004年)

Kakiking出町柳の某町屋ふう「カフェ」で渋茶を飲んでいたら、かかっていた音楽が妙に印象深かったので、店員のお姉さんを呼びとめて「この音楽は誰ですか」とたずねてみた。お姉さんはちょっと確認してくれて「カキ・キング」です、と教えてくれた。

は?柿キング? なんか「殿様キングス」みたいな名前だな、とそのときは思ったがメモしておいて、あとでネットで調べると「カーキ・キング」と読むそうだ。後日河原町オーパのタワレコによぼよぼと這いのぼってこのCDを買ってきた。

若い女性ギタリストのインスト曲集で、帯には「そのテクニック、切れ味抜群、新たなるギタリスト伝説に加わる逸材」とあるけれど、聴いていると超絶テクのギタリストという印象はしない。むしろシロウトっぽい感じがする。ギターをさわっていると、何か曲を練習するというのではなくて、適当に弦をはじいたりして自分勝手な音を出してひとりで悦に入るときがある。そういうところから音楽になっていった感じがする。単なる想像だけれども。

それと、これはライナーにもふれられているのだが、曲の印象として「暗い」のが多い。それがユウウツな暗さではなくて、繰りかえし聴いても重くならない、不思議な暗さである。すっと入ってくるし、落ち着くし、いろんな気持ちになる。気に入った。今年の年越しはこれを聴いてすごそうと思う。

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「孤独死」について2

近所の書店で売れている本の棚をみていたら、上野千鶴子『おひとりさまの老後』(法研、2007年)があった。手にとってぱらぱらめくると、最後のほうに「孤独死」についてページが割かれていたので、思わず買ってしまった。

上野千鶴子はこの本の中で「おひとりさまの条件は、友人のネットワークをもっていること」という意見を一貫して書いていて、そういうものをもっていない山猫としては気が滅入ったのだが、「孤独死」については、このあいだ自分が考えたのと似ていると思えるところもあり、少し意を強くした。上野千鶴子も<「孤独死」につきまとうネガティブなイメージを、なんとか払拭できないものだろうか?>と問いかける。この問いかけがあるだけで、この本は買った価値があった。

そこに紹介されていた、東京都観察医務院のホームページに載っている小島原將直という監察医長の講演録<『孤独死』――ニーチェに学ぶ>はおもしろかった。いや、おもしろいというと不正確かつ不謹慎かもしれないけれど、「孤独死」といわれる状況にある遺体の実際の検死解剖をしている方のことばかと思うと、迫力があった。上野は「心にしみる講演録」と書いているが、たしかに「録」ではなく全部を聴いてみたい気がする。ニーチェについては無知なので、それと「孤独死」との関係はいまひとつ山猫にはわからないところがあったが、

巷にあふれる「孤独死」にいわれなき恐怖を感じるなかれ。実際の死は苦しくないし、孤独も感じない。

と力強く断じられると――上野の本にも引かれている――ほっとするところがある。

上野先生も、小島原先生も、死んだときに早く発見されるよう万全の準備をしておけ、と忠告する。死んだらあとは野となれ山となれ、とも一瞬思うが、現実を考えれば片づける人は大変だし、あんまりひどい姿は他人に見せないにこしたことはない。そのうち、心拍が1時間停止したら自動的にどこかへ通知される指輪でも開発されないだろうか(GPS機能つき)。でもそうしたら今度は、自発か強制かという問題が起きてくる可能性がある。

そのHPで知って興味深いと思ったのは、<死体発見までの経緯>の分類があり、そのなかに<通い(飲食店など)>という項目があったことだ。これは要するに、いきつけの飲食店があって、顔をみせなくなった客を心配して店主が訪ねたり各所に連絡したりして発見される場合である。事例にも居酒屋とラーメン店の場合が載っている。これは発見の経緯のなかでも、とりわけ風流なパターンのように思える。いきつけの飲食店があるというのはいいことなんだなあ、と妙に納得した。

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川村かおり/CAMPFIRE(PONY CANYON,1989年)

Kaorikawamura山猫の愛するものに、<フラットな、深みのない少女の声>というのがある。あんまり甘味とか潤いを感じさせない、かといってハスキーでない、カッターナイフで紙をスパっと切ったような声が好きなのだ。

初期の川村かおりはちょうどそんな声をしていた。声が好きというだけでなく、このCDは、全曲シングルカットOKみたいな、名盤だと思う。全曲、高橋研という人の作曲。最近ひさしぶりに聴きなおして感心した。当時は聴くのに照れくさい思いがあったけれど、時間が経って逆に今はぜんぜん照れずに聴けるようになった。エヴァーグリーンなアルバムである。ジャケットの憂えたボーイッシュ美少女ぶりも好ましい。

山猫は当時、生計のため某私立高校で週2回、非常勤講師をしていた。朝早く起きると、死ぬほど憂鬱だった。今日もあの埃っぽい教室で一日声を張り上げるのかと思うと、うんざりした。休もうかな。ズル休みしたい。そうもいかんな。コーヒーをがぶ飲みし、煙草を吸いまくり、ヘッドホンでこのアルバムの「月曜の朝、汽車に乗って」を大音量で耳に叩きこむと、やっと立ち上がることができた。そんなことでこのCDには感謝しているのである。

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中島義道『ひとを愛することができない』(角川文庫、2007年)

中島義道の本は、書店で見かけても手にとるのはなかなか勇気がいる。そのエネルギーにみちた業のようなものに圧倒されてしまうからだ。もちろんそれだけではなくて、中島先生は誰も言わないことを言ってくれることがある。この本では次のようなところだった。 

現代日本のマジョリティ(多数派)はひとを愛することは当然であり、この能力の欠如している者を人間のかたちをした怪物のように忌み嫌う。どんなに学力があっても、仕事ができても、ひとを愛することができなければ虫けら同然だという論理を振り回す。他方、愛することができれば、いかなる欠点をも帳消しにするほど人間として立派なのだと考える。

この思い込みはたいそう強いので、これに疑問を付すことすら難しい。これを問題にすることすら嫌がられる。ここで、私は肩の力を落とす。

まったくそうだ、と思う。現代では、「愛」こそ至上の価値であり、「ひとを愛せない人間は人非人」ということになる。ひとを愛せない人間、それは鬼・悪魔に等しいのだ。

今回、中島義道は、これを《偏見》として、こなごなに打ち砕いてくれるのかとひそかに期待していたら、そういうわけではなかった。中島先生はこの本の中で「愛」の諸相を分析し、自分の生い育った家庭、特に「ひとを愛せない人」であった父親と、その人に愛を要求しつづけた母のことを赤裸々につづる。結論は、要約すれば、「自分しか愛せなかったこの醜い自分を直視して生きていくしかない。それがほかならぬ《自分》なのだから」というものである。けっして、「ひとを愛せなくてもいいではないか」とは言っていない。

「ひとを愛することのできない人間」は鬼・悪魔で、生まれてこなければよかったのだろうか。

愛するのは人間でなくてもいい、と言ってくれた本に、今まで一冊だけ出会ったことがある。神田橋條治という著者の、『精神科養生のコツ』(岩崎学術出版)という本の中に、次の一節がある。

人生では愛することが不可欠です。不可欠なのは、愛されることではありません。愛することなのです。そして、愛する相手は、人でなくてもいいのです。生き物でなくてもいいのです。星空を愛して人生を送っても充実した人生になるのです。わたくしたちは何かを愛しているときに、自分の人生を生きているのです。

人間でなくても、生き物でなくてもよいのか……。このことばには救われる。だけれども本当だろうか。もう少し証拠がほしい。

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