「孤独死」について
テレビをつけていたら、NHKで遺品整理会社を取材したドキュメンタリー番組を放映していて、最後まで見入ってしまった。
番組の内容は《「天国への引っ越し手伝います」をキャッチに掲げる東京・大田区の日本初の遺品整理会社に密着。一人暮らしだった部屋に残された遺品から現代の孤独、家族の姿を映し出す》というものだ。
映し出されたこの会社の社員の働きぶりには好感がもてた。ただこの番組全体にどうしてもひっかかった点がひとつある。いや、実は前からずっとひっかかっているのだ。それは番組中のナレーションにあたりまえのように多用されていた「孤独死」という呼び方である。
孤独死、という語には、<本来あるべきではない死に方>というニュアンスが付随している。そこには、家族にみとられて死ぬ死に方が最上のものであるという価値判断が前提としてあることは、まちがいない。家族でなければ、少なくとも親類縁者か、医療関係者が臨死の人のかたわらにいるべきで、それがかなわないのはひどく不幸な人生の終わり方、という認識が「孤独死」という呼び方の中にふくまれている。
以下は少し声を落としてぼそぼそと語りたい。
そうなんだろうか。「孤独死」は、そんなに不幸な、忌み嫌うべきものなのだろうか。
そもそも、どんな場合でも、ひとはひとりで死んでゆくのではないだろうか。
「ひとはひとり死ぬであろう」――0n mourra seul.たしか大学生になった頃に読んだ、松浪信三郎『実存主義』(岩波新書)に出ていたことばだ。他の内容はぜんぶ忘れてしまったが、このやけに簡潔なフランス語の文だけは忘れられない。(ちょうど第二外国語でフランス語を習いはじめた時期で、動詞の活用をいっしょうけんめい覚えようとしていたせいもあるだろう。パスカルのことばだったはず)。
どんなにたくさんのひとにみとられようとも、ひとは自分の死を死ぬほかない。――いや、そんな訳知り顔の哲学の解説のようなことを書くつもりはなかった。
むしろ「孤独死」には、ひとの尊厳があるのではないか。テレビ番組で取材の対象となっていた死者たちは、どのひとも静かな諦念と自分の生をみすえる強さをたたえているように感じられた。誰だって蛆のわいた自分の亡骸を他人の目にさらしたくはない。そんなことはあたりまえだ。誰にもみとられない死を、みずからの生の終結として選んだひと――そうだ、選んだ、と言おう――にはおかしがたい威厳がある。高貴な生き方であり、死に方ではないか。それを「孤独死」という安易にマイナスイメージを負わされた語でおとしめるのは、腹立たしい。
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