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新旭町・里山水辺ツアー

Harie1Harie2数年前、テレビでNHK特集「映像詩 里山・命めぐる水辺」という番組をたまたま見た。忘れられない印象を残したテレビ番組だった。琵琶湖畔のどこからしいのだが、家々に「カバタ」という自然の湧水を利用した流しが設備されており、そこで洗面し、野菜を洗い、調理し、食器をすすぐ。澄んだ水のあふれるカバタには鯉が住みついていて、たとえば調理後の鍋などをそのカバタに漬けておくと、鯉が鍋を舐めて、きれいにしてくれるのである。すごい!こんなところがあるんだ、と思った。これはどこなんだ? と。

そのうちやっとわかったのは、湖西の高島市新旭町の針江地区というところが撮影場所だということだった。ネットで調べると、地域ガイドが案内するツアーを実施している。好奇心抑えがたく、10月の土曜日、あらかじめ申し込んで参加してきた。

あのNHK特集はすぐれた番組だった。その後いくつもの国際的な賞を受賞している。こんな生活をしている地域があるのか――ぜひこの眼で見てみたい、と思ったのはもちろんこの山猫だけではなかったのだ。小さな町に多くのよそものがたずねてくるようになって、共同体に軋みが生じた。いっそ、土曜日ごとにガイドつきのツアーを挙行したほうが訪れる人のためにも地元の人のためにもいいのではないか。そういうところからはじまったツアーらしい。

Harie3Harie4Harie5新旭町観光協会のHPはすぐ見ることができるし、ネット検索するとこれまで参加した方の文章や写真がけっこうヒットするから、あらためてここで詳しい行程を述べる必要はないと思う。午後12時半から4時まで、ボランティアのガイドの方が個人宅の内部のカバタまで案内してくれて、保険つきで、最後は公民館で軽い食事まで出してくれるのだから、参加費2500円は安いと言っていいだろう。

参加して感じたのは、「ここって、桃源郷!?」ということ。いやいや、ちょっと冷静になろう。そもそも、わたしを含めてこのツアーに参加した人の多くはあのNHK特集のテレビ番組がきっかけになっている。あの番組自体が、水とともに暮らす小さな共同体を「桃源郷」として演出していなかっただろうか。小国寡民。生き物との共生。循環する自然と人事……要するに「風の谷」なのだ。

現実の共同体が演出された桃源郷を裏切るのがふつうのパターンだが、実際の針江地区は、テレビ番組の印象とは少しちがった、もうひとつの「桃源郷」だった。閑静で、とても美しい町だった。この「美」の印象はどこからくるのか…。この山猫でもすぐに気づくのは、家並みの統一がとれていることだ。周辺地域にはバンガローふうの別荘や、いわゆるアパート、ハイツのような建物があるが、針江地区の中核はほとんどが木造一戸建ての家屋で、バリエーションはあるにせよ、焼き板木造の瓦葺という様式はだいたい同じである。一軒一軒異なりながら、おのずと他の家々とバランスがとれており、それが落ち着いたこころよいリズムのようなものを生み出している。この統一は意識して保たれているものだろうと推測する。地区内170軒のうち、カバタを備えている家は107軒という話であった。

町の中を縦横に水がめぐる町――だけど九州の柳河とはまた雰囲気がぜんぜんちがう。文芸のえにしでいうなら、数年前に一回だけ訪れたことのあるイリエ=コンブレーにちょっと町の空気が似ているか。でも、白秋やプルーストのような詩人をもたなかったからこそ、この水の町は生きのびたのかもしれない。あのテレビ番組が、はじめての「作品化」だったのだ、おそらく。

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歩き酒

夜、歩きながら、酒が飲みたいと思う。アルコール分解酵素が少ない体質で、すぐ動悸がして顔が赤くなってしまうのだけれど、毎晩のみたい。若干依存気味である。

酒を飲みたい。しかし、自室の方丈の庵で飲むのは気鬱でやりきれない。かといって、どこかの店に入って酒とさかなを注文し、楽しむということもなかなかできない。人見知りなのでひとりではなかなか店内に踏みこめず、踏みこめても落ち着けないからである。また日本酒でいえば一合だと少しだけものたりなくて、二合飲むとあとで苦しむという中途半端なアルコール耐性のせいもある。

自室でも飲めず、店でもダメとすれば残る方法はひとつ。歩き酒である。コンビニで缶ビールか日本酒の小瓶を購って、歩きながら飲む。これがいちばん簡便だが、他人にはやや「すさんでいる」印象を与えるかもしれない。なるべく人通りの少ない場所を選んで歩き酒するのだが、日本酒の壜をもってふらふら歩いているこちらをみて、ぎょっとした表情をして大きく迂回する女性もいる。当然だろう。

飲酒欲は満たしても、公序良俗を乱すのはよくない。というわけで、日本酒を象印の小型(0.25リットル)まほうびんに移しかえて携行する。ときどき立ち止まってフタに注いでぐびりと飲む。これなら酒を飲んでいるとはわからないだろう。万事解決だ。ひんやりした秋の夜の空気のなか、吉田山かいわいで月を愛でながら歩き酒を楽しむのはすてがたい風流だ。……あれ、これってもしかしてアルコール依存のグレードが上っただけか? まあ、あしたから少し控えればいいさ。

コーヒーを入れたことのあるまほうびんに酒を入れると格段に味がおちるので念のため。

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幸田露伴『幻談・観画談』(岩波文庫、1990年)

釣りをしたら釣りの文章が読みたくなった。幸田露伴に「幻談」というのがあったはずだ。本を入れた櫃のなかをあさったが、みつからない。仕方ないので本屋へ行って岩波文庫を購おうとして手にとると、現代かなづかいになっている。あれ、たしかむかし読んだときは旧かなで読んだよなあ……と不審に思ったが、他に簡単に入手できる版はない。

江戸も末期、御役御免になった暇な武士が、毎日船をしたてて釣りにいく話である。解説の川村二郎が言うように、ほとんど「無内容」な小説で、少々怪談じみた設定があるといえばあるのだが、べつに教訓があるのでもなく、人情の機微があるのでもなく、ことさらに詩的雰囲気を狙ったところもない。「ほのぼの」もしていないが、生の実相をえぐるというような深刻なものもない。「純粋文章」のひとつ、と言っていいかもしれない。読みおわると、あたかも暮れきる直前の、なめらかで茫々とした湾をそのまま器に封じこめて飲んだような感じがのこる。不思議な小説だ。

「幻談」はケイズ(クロダイ)釣りで、巻末の「蘆声」は中川でセイゴ、フッコ釣りである。露伴は汽水域の釣りを好んだのか。江戸前だから、自然とそうなるのか。

追記:その後なんども読み直すうち、いや、これは「無内容」ではなくて、たしかに何ごとかが記されている、と思うようになった。つまり「内容」があるのだ。「心は巧みなる画師の如し」が問題である。この小説には教訓も、微妙な生の実相も含まれているかもしれない。

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